2015年1月29日木曜日

違う、そうじゃない。手前勝手な祈りなんだ

引き続き雲取の登山レコを…
と言いたいところだけれど、その前にイスラム国の人質事件について、いろいろ考えさせられる出来事があったので、ちょっとだけ。
文語体だと読みづらく、攻撃的に感じる人もいて誤解を招きそうなので、以下より口語体で書きます。


寒いときのおでんの温かさは全身に染み渡るようです。日本の温かい場所にいる自分の幸せを深く感じられるソウルフードの一つです。


 「自己責任」への違和感

最近よく耳にする中で一番モヤモヤするものに「自己責任」という言葉があります。
「自己責任」という発言をしたことがある人に聞きたいのですが、その言葉がもつ意味を日頃深く考えたことはあるのでしょうか。

私自身は「自己責任」という言葉に対して、常々「同調圧力」というか横暴さを感じています。
政府側の都合を押し付けた、日本政府の無責任さをあらわす言葉、それが「自己責任」だと思っています。
今回のように「自己責任」を先に発したのが人質となった後藤さん本人だったとしても、発した背景にあるものを慮りもせず、渡りに船とばかりに素直に便乗してしまうのは早計なのではないでしょうか。

たとえば増水の危険を認知していたにも関わらず河原の中州でキャンプをして流されてしまった人や、無茶なバックカントリースキーで遭難してしまった人に対して「自己責任」を持ち出すのであれば、百歩譲ってわかる気がします。
 「危険な遊び」を好き好んでやっているのだから、ある程度危険な目に遭うのは必然であり、致し方のないことでしょう。
(それでも遭難者に対して「死ねばよかった」などと親の仇を見つけたかのような必要以上の暴言を吐く輩がまれにいますが、そういう馬鹿者は論外です。お前みたいなのからお先にどうぞ、と思います(怒))

ですが、戦場に赴いたジャーナリストに対して発された「自己責任」とは一体どういう意味なのか、何度考えても私にはよくわかりません。

テロが頻発し治安情勢が安定しない紛争地帯など、非常に危険な現場には大手メディア所属のジャーナリストは派遣されづらいのが常です。
戦場で犠牲になるジャーナリストや写真家は、決まってフリーランスか規模の小さな通信社の記者だったりします。
そういう個人に対して、国家をあげて「自己責任」を押し付けるような空気を作り上げるのに加担している、他のメディアに対しても大きな不信感を抱かざるをえません。

「人の衆目を集めるために危険な場所でニュースを拾ってきて、それを飯の種にしようとする方がどうかしている。危険な目に遭うのは自業自得じゃないか」

はたして本当にそうでしょうか。

遠く離れた戦地の現状は「知らなくていい」ニュースなのか

ミャンマーで殉職した長井さんの言葉にもありますが、
「誰も行かないところに誰かが行かなければ」
戦地の状況は誰にも知られること無く、劣悪な環境は改善されず、諸悪はいつまでも世界にはびこり、真実は闇に葬られたままです。

世の中には、たとえば芸能人のスキャンダルとかネットの炎上騒ぎとか、知らなくてもいい、どうでもいいニュースもたくさんあります。
ですが戦場の今を「知らなくてもいいこと」だと切って捨てる姿勢には疑問を感じます。

地球上から紛争地帯や戦争地帯が無くなったことは有史以来たぶんありません。
それにもかかわらず「日本が平和ならそれでいい。戦地のことなんて知らない」と目をつぶり続ける行為は、国際化を推し進める側にある経済先進国に住む日本人として、一種の責任を放棄しているような気がしてなりません。


イスラム国成立のきっかけと日本の立場について

イスラム国の成り立ちについて、もともとイラク・フセイン政権の主要メンバーだった人間が中核にいるということを最近ようやく知りました。
こんな文章を書いておいてなんですが、私も世界情勢に敏感な方ではないので、いろいろ調べてやっと輪郭がわかってきた程度です。
多くのイスラム過激派のテロ集団と「イスラム国」とでは、この辺りが根本的に違うようです。

フセインといえば、「アルカイダを支援し、大量破壊兵器を隠し持っている」とアメリカが認定して処刑をしたイラクの元大統領です。
ご存知のとおり、イラクで大量破壊兵器は見つかりませんでした。
死刑の根拠になった事実自体が嘘だったのです。

イスラム国成立のきっかけを与えたのは、理由不明のままフセイン政権を壊滅に追い込んだアメリカ、そしてアメリカの連合国、ということになります。
その連合国にもちろん日本も含まれます。

アメリカ大統領などがよく口にする「テロとの戦い」とは、一般的には「イスラム過激派とクリスチャン国家」との戦い、言い換えれば「テロリズムとグローバリズムとの戦い」です。
一神教の宗教を持たない日本などの連合国国家もしっかり「グローバリズム」の方に加担しています。
反対に「テロリズム」の方にはごく普通のムスリムは含まないと考えていいでしょう。
一般的なムスリムたちは、無関係な団体とはいえども同じイスラム教徒のテロ行為に心を痛め、また宗教弾圧と差別を恐れている状態なのではないでしょうか。

■イスラミックセンター・ジャパン
イスラミックセンタージャパンは、2人の日本人の人質を殺害するというイスラム国の脅迫に対して、抗議します。


これは「優しさ」じゃない。勝手な「祈り」だ

私は、亡くなってしまったであろう湯川さんには非常に勝手ながら、自分自身のある親族の影を重ねて見ていました。
だから湯川さんのご尊父に対しては、湯川さん以上に感じ入る部分がありました。

また後藤さんに関しては、いまだに安否が気遣われる不安な状況が続いていますが、とにかく無事を祈っています。
ついでに、お母様の記者会見は見ていませんが、伝聞だけでも別の次元で辛い思いをされたことが想像に難くないので、とくにコメントは控えます。

先日あるところで後藤さんの安否を気遣う発言をした際に、「Tさんはとっても優しいんですね」と言われてショックを受けました。
自分は「自己責任」という空気がある中で何か特殊な考えを持った、変わった人間なのだろうか。
「優しさ」とは一体何だろうか、と。

違うんです。そうじゃないんです。
後藤さんを気遣った言葉は「優しさ」から出たものではないんです。

イスラム過激派とクリスチャン、テロリズムとグローバリズム、その戦いになぜどちらの宗派にも属さない後藤健二さんはクリスチャンとの記述がありました)フリーランスの日本人ジャーナリストが巻き込まれなければいけなかったのか。
またクソコラ騒動にも表れているように、イスラム国成立の一端を担っているにも関わらず、なぜ日本人の大部分がこの件に関して「無関係」というスタンスで「無関心」を決め込むのか。
そして「自己責任」という政府お仕着せの言葉を無自覚に使い、コラージュで事件を愚弄し茶化したりするのか。
(シャルリー・エプド事件のようなマイノリティや個人を攻撃するのではなく、横暴な公人や権威を茶化すようなクソコラなら、表現として存在価値があると思うんですけどね…)

これらに対する無力感と憤り、そして一人の非正規雇用の社畜(なんだかおかしな表現ですが)として、かつてフリーランスライターとして活動した者として、勝手に、恐れ多くも、後藤さんに自分を重ね合わせて、藁にもすがる思いから出た、
「後藤さんだけは助かってほしい」
という祈りなんです。

いまだ事件の解明と解決には至ってはいませんが、そんなことを考えました。
引き続きこの件に関して、見守っていきたい所存です。


■1月31日追記
「身代金2億ドルをとっとと払えば解決するのに」とは私も思いません。
テロリズムという暴力行為が蔓延する世の中にしないためにも、「イスラム国」というテロ集団を認めるわけにはいきません。
イスラミックセンター・ジャパンの意見にもありましたが、私もそれを支持します。
ただ身代金を払わないことを正当化する口実として「自己責任」という言葉を無自覚に使うことにはこれからも異を唱えたいと思っています。


新書「イスラーム国の衝撃」をGWに読む

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