町田市鶴川にあるギャラリー「あとりえ・う」
畦地梅太郎氏の展示を観に町田市鶴川にある「あとりえ・う」まで行ってきた。「あとりえ・う」とは、山の版画家・畦地梅太郎氏が生前すごした自宅兼アトリエで、現在はアトリエ部分をギャラリーとして無料で一般公開している場所だ。
あとりえ・う(畦地梅太郎ギャラリー)
ギャラリー内のとある場所には登山の時に持参していたであろう私物の水筒がぶら下げてあり、水筒をおおう布地には「畦地」とマジックで名前が記されていた。
そんな梅太郎の生活の息吹まで感じられる貴重な場「あとりえ・う」にお邪魔した。
思い出いっぱいの小田急トークが止まらない
二十歳前後の一時期町田の旭町に住んでいたので小田急沿線には馴染みがある。
だが鶴川で下車するのはこの日が初めてだった。
ギャラリーに同行してくれたのは、かつて同じく小田急沿線の和泉多摩川駅近くに住んでいて、今は23区内に住んでいる友人Oさんだ。
急行が下北沢駅近くにさしかかると見慣れない風景が広がっていて、二人とも同時に違和感をおぼえた。
「そっか下北って地下になったんだね」
「下北じゃないみたいだね!」
「成城学園前と間違えそう」
「成城学園はだいぶ昔から地下だもんね」
などと小田急トークに花が咲く。
経堂、豪徳寺、狛江などの駅を通過中にはそれぞれそこに住んでいた友人の話をし、梅ヶ丘では美登利寿司の話、小田急は関係ないが高井戸のある公園のベンチで美登利寿司を食べていたらおびただしい数の蚊に足を刺された話、ふと思い出したデング熱の話、和泉多摩川のモスバーガーの話、登戸の居酒屋でOさんがバイトしていた話、向ヶ丘遊園がなくなった話、玉川学園大に高校の後輩が通っていた話、多摩センター駅が二つある話など、車中では小田急の各駅にまつわる思い出話合戦となった。
新百合ヶ丘で乗り換えた各駅列車は、いつの間にか鶴川に到着していた。
残念ながら小田急沿線の各地に住んでいた友人たちは全員引越しをしてしまい、今はもう誰もいない。
小田急沿線に思い出話だけがこだました。
いや、よーく思い出せば誰か一人か二人くらいはいたような…
だが鶴川で下車するのはこの日が初めてだった。
ギャラリーに同行してくれたのは、かつて同じく小田急沿線の和泉多摩川駅近くに住んでいて、今は23区内に住んでいる友人Oさんだ。
急行が下北沢駅近くにさしかかると見慣れない風景が広がっていて、二人とも同時に違和感をおぼえた。
「そっか下北って地下になったんだね」
「下北じゃないみたいだね!」
「成城学園前と間違えそう」
「成城学園はだいぶ昔から地下だもんね」
などと小田急トークに花が咲く。
経堂、豪徳寺、狛江などの駅を通過中にはそれぞれそこに住んでいた友人の話をし、梅ヶ丘では美登利寿司の話、小田急は関係ないが高井戸のある公園のベンチで美登利寿司を食べていたらおびただしい数の蚊に足を刺された話、ふと思い出したデング熱の話、和泉多摩川のモスバーガーの話、登戸の居酒屋でOさんがバイトしていた話、向ヶ丘遊園がなくなった話、玉川学園大に高校の後輩が通っていた話、多摩センター駅が二つある話など、車中では小田急の各駅にまつわる思い出話合戦となった。
新百合ヶ丘で乗り換えた各駅列車は、いつの間にか鶴川に到着していた。
残念ながら小田急沿線の各地に住んでいた友人たちは全員引越しをしてしまい、今はもう誰もいない。
小田急沿線に思い出話だけがこだました。
いや、よーく思い出せば誰か一人か二人くらいはいたような…
「黒部の山賊」の表紙で梅太郎を知る
畦地梅太郎との出会いは、最近何十年かぶりに復刊した書籍「黒部の山賊」で見かけた表紙と扉絵だった。
「黒部の山賊」の表紙にもなった「山の音」
作中に登場する怪しくも魅力的な「黒部の山賊」こと歴戦のツワモノ狩人たちと、かわいらしくも奇妙な表紙のキャラクターが妙にマッチして、ともに心に残っていた。
版画の作者である畦地梅太郎のほかの作品を漁っているうちに、いつしか私は畦地ワールドに引き込まれていた。
とくに「山男シリーズ」で描かれた髭の山男や、山男の家族とともに仲睦まじく寄り添う雷鳥の姿に心を奪われてしまった。
山男と雷鳥の「山湖のほとり」と「六人の山」を家に持ち帰る
丘陵地の住宅街にひっそり佇む「あとりえ・う」
鶴川から徒歩10分程度の住宅街の中に「あとりえ・う」はある。
小田急沿線は登戸をすぎたあたりから森林地帯の様相を帯びてくる。
丘陵地を切り開いたような郊外都市の町並みに懐かしさを感じるとともに、急峻な坂道の多さと久々となる夏日の再来に、息も多少乱れ気味になる。
アトリエを目指して坂を登っていると、何の前触れもなく突然左手に郊外型のドラッグストアがあらわれて驚く。
そこから間もなく、うっかりしていると見落としてしまいそうなギャラリーの看板を前方に発見する。
畦地家の住居の脇道を奥まで行くと、小さな木造の素敵なアトリエ然とした「あとりえ・う」が待ち構えていた。
小田急沿線は登戸をすぎたあたりから森林地帯の様相を帯びてくる。
丘陵地を切り開いたような郊外都市の町並みに懐かしさを感じるとともに、急峻な坂道の多さと久々となる夏日の再来に、息も多少乱れ気味になる。
アトリエを目指して坂を登っていると、何の前触れもなく突然左手に郊外型のドラッグストアがあらわれて驚く。
そこから間もなく、うっかりしていると見落としてしまいそうなギャラリーの看板を前方に発見する。
畦地家の住居の脇道を奥まで行くと、小さな木造の素敵なアトリエ然とした「あとりえ・う」が待ち構えていた。
「あとりえ・う」通路の案内板
ギャラリーでは一人静かに女性が番をしていた。
あとで調べたところ、この方はどうやら梅太郎の長女にあたる人物らしい。
東京)町田ゆかり「山の版画家」30点 故・畦地梅太郎
緑のTシャツ姿が素敵だ。
版画作品やグッズのほかに、アトリエらしく木版の原板や版画道具が置いてあったり、極めてキュートな顔をしたコケシがいたり、梅太郎作らしい涸沢ヒュッテの看板写真や燕岳の山荘前に鎮座する名物キャラ「山男の像」写真などが所狭しと飾ってあった。
梅太郎が作品制作の合間に読んでいたのだろうか、本棚に多くの書籍が並んでいた。
その中でとくに注視してしまったのは私も大好きな作家・中上健次の「日輪の翼」だった。
同じ愛媛出身だから大江健三郎の著書もよく探せばあったかもしれないが、覚えている背表紙は「日輪の翼」だけだ。
Tシャツはあとりえ・うオリジナルの綿100%のもののほかに、モンベルで販売されている速乾性の高いシリーズも一通りそろっていた。
個人的にうれしかったのは、梅太郎が山岳シリーズを手がけるきっかけになったという、わが故郷自慢の浅間山Tシャツもあることだ。
浅間外輪山・黒斑山山頂と指
ついカッとなって浅間山へ登ってやった(浅間山の山レコ)
いくつかのグッズを手にお会計をお願いすると、今度は奥からお孫さんにあたる男性が出てきた。
本当はもう少しだけ梅太郎の息吹を感じていたかったが、物静かな親族らしき方々とシンと鎮まりかえる場所にずっといると緊張するので、我々二人はそそくさとギャラリーをあとにした。
本当は旧白洲邸 武相荘(ぶあいそう)にも寄ってみるつもりだったが、終わったはずの夏の暑さにやられ、武相荘近くで迷っているうちに疲れてしまい、そのまま帰ってきてしまった。
鶴川には必ずまた行こう。そう思う。
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